「安全第一」 (その1)
「安全第一」は、多くの労働災害が発生していた1900年代の初頭に世界有数の規模を誇る製鉄会社USスチールの社長が提唱した経営方針といわれています。当時の「生産第一、品質第二、安全第三」という会社の経営方針を抜本的に変革し、「安全第一、品質第二、生産第三」とした結果、労働災害はたちまち減少したうえに品質・生産も上向き、この安全第一という標語はアメリカ全土に、そしてその後、世界中に広まった、などと説明されています。
「安全第一」を語るときに大切なのは、「安全」、「品質」、「生産」の各要素が序列で示され、その中で「安全」が第一番目に置かれているということです。そして、時と場合によってその序列が変更されることがあってはならないということです。それほどに「安全」を絶対優位のものとして経営方針に掲げる「安全第一」が、初めて災害防止対策として成果をあげるのです。仮にその変更が許容されるのであれば、もはや「安全第一」とはいえないものとなってしまいます。
「安全第一」は掲げるだけではダメなのです。本当の「安全第一」は「安全絶対第一」なのです。掲げる以上それ相応の覚悟が必要なのです。
では、安全衛生旗の掲げられた現場での「安全第一」を覗いてみましょう。
「法律違反だといわれれば、そうかも知れないけれど、この程度のことにまで違反だといわれたら、仕事にならないよね。注意すれば怪我をするわけがない。みんな、この作業には慣れているし。大丈夫、注意しながら作業しよう。」と誰かが発言します。すると、同じ仲間の誰かが「そうだよな。仕事にならないよな。いちいちそんなことまでやっていては。」と続けさまに発言します。そそて「そうだ、そうだ。」と全員が声をそろえます。
失礼かもしれませんが、こんな光景は案外いたるところで見かけ、あるいは経験されているのではないでしょうか。そして、実のところ、何が危険なのか、どのように気をつければいいか、仲間の間で共通の認識が得られていない。それぞれ思っていることが違う。あるいは、具体的な注意作業をする意図を持っていない者もいるのです。そんな中で「注意をすれば大丈夫」なわけがありません。
危険箇所と言葉では言いながら本当は「危険」と思っていないなどの場合は、対策を期待することは困難です。あるいは、「危険」を認識しているけれど、(大した)怪我をすることはない、これまでも怪我をした人はいない、などと判断すれば、やはり、対策を期待することはできません。また、危険を承知しながら「危ないけれど、気をつけて作業すれば大丈夫」と考えるかもしれません。一方、そこに「危険」があるのに、その「危険」に全く気づいていないことがあるかもしれません。
このようにいろいろな思いや判断があった場合、安全対策や労働災害防止対策を現場任せにしていては、実質的には何も対策が講じられないままに作業を行わすこととなります。「安全第一」を掲げていても、具体的には「安全第一」の活動が何も行われていないことになりますし、「なかなか全ての作業員への具体的指示は難しい。ある程度は作業員の判断で安全作業を行ってもらわなければ。」などと思っているのであれば「安全第一」の旗を降ろさなければなりません。
「危ない」けれど、大丈夫だろうと「作業させる」のは「犯罪」です。刑事罰の対象です。そして被害には「損害賠償責任」を負う行為です。また、企業が「社会的責任」を負わなければならない行為です。なにより、労働者を軽視し信頼関係を裏切る許されない行為です。
現場任せにせず、具体的な「安全」対策を指示して、「危険」の排除を確認してから作業をさせるのが企業の責任であり義務です。労働者の「安全」に確信が持てなければ「行わせてはならない」のです。
「安全第一」は掲げなければなりませんが、掲げる以上は、その実体、見合う活動が必要です。そして、現場発の「安全第一」の行動、行為には大きな声で感謝を伝え、それが直接的、短期的にコストの増加を生ずるものであっても、長期的には品質・生産に上向きの効果を与えるものと信じて、更なる動きにつながるような賞賛の姿勢を示してください。
2020/12/01 ( 文責 : 丸山ひろき )